(なんか大げさなタイトルですが、至極普通な内容です。)
Siltはよくあ〜お花屋さんね〜なんて言われることも多いのですが、その度に、違うんだけどなぁ、と悶々とした気持ちになります。
でも私もこの世界にいなかったら、園芸店と花屋さんて何が違うの・・?と思っているかもな、ということで
花の世界と園芸の世界は重なり合いつつ少し違うんだよ、ということをなんとなく書きたくなりました。
そしてそれはいのちという見方をすると見えてくる。

少し前に、山形ビエンナーレのオンライン開催をぽつらぽつらと見ていて、
「いのちの学校」というプログラムの中で、花道家の上野雄次さんがこんなようなことを言っていました。(ちょっと私の方で脚色があったらごめんなさい)
花を手折る時、その時点からその花は死へと向かっている。
花が咲いて、生殖をして、次の世代を残すという最大の盛りの美しい時に、
人間の都合で花のいのちを奪うわけだから、そのいのちを作品という形で昇華しなければいけないよね。
花を扱うというのはある意味痛みを伴うことだ、と。
それを聞いて、ひれ伏した私。
華道に”道”という言葉が使われるのは、花をたよりに、人の道を知ることでもあるからなんだなと思う。
花を扱う方が背負っているものに比べたら、園芸の世界はずいぶんと平和かもしれない。
園芸家は基本いのちあるものしか扱わないからだ。
植物の歩むスピードに寄り添い、人間の寿命など遥かに超えて生きていくものに、希望を見出す仕事。

”一般的には植物を育て楽しむこと。
本来なら『園藝』と書き、生きた植物を絶対的素材とする芸術(美的文化)の一つである”
(ウィキ先生より)
もちろん生きたものを扱う以上、死と直面することはあっても、
タネをまき、挿し木をし、交配をしたり、庭というキャンバスに植物で絵を描きながら、
背後に死を意識するということは、あまりない。
ただ上野さんはこんなことも言っていた。
花なんていけなくても人は生きていけるけれど、何ゆえ花をいけるのか。
それは現実の煩わしさと対峙する中で、イメージの中に逃げ込むことで、心が休まり、また現実世界に戻れる、その繰り返しで我々のいのちが支えられているから。
花は、そういうイメージトリップのスイッチを押すのに重要なアイテムだと。
ふむふむ。
これ関しては、私も園芸に対して常々そんなことを思っているので、共通するなぁと思う。
ガーデンセラピーとかそういう分かりやすい名前のついたものではなくて、私も随分と庭に逃げ込んで、救ってもらった。
大げさでなく園芸が人を救う瞬間を見てきた。
なんでこんなことを今書いているかというと、ここ最近の世の流れというか、いのちのあり方のようなものに対して、得体の知れない危機感があるからだ。
そしてそんな危機感と共に生きてかなくてはいけない中で、今園芸を生業にしている意味がなんかあるんじゃないかとか結構マジに考えている。
ところで、佐渡にはガシマシネマさんという映画館があります。
ガシマシネマの堀田さんが、不登校の子大歓迎〜とよくおっしゃっているのが私はとても印象に残っている。私が子供の頃に、そんなことを言ってくれる大人がいて、そんな場所があったらとても救われたろうと思う。(あ、学校は嫌いでしたが別に不登校だったわけではないです。)映画が心を浄化して、奮い立たせてくれたことが、一体どれだけあっただろうか。
花も園芸も映画の世界も、お腹は満たされないけれど、精神世界を満たしてくれるとても大切なもの。
ワインだってそうだ。
今Siltは小売店だから、一見とても物質的ではあるかもしれないけれど、誰かの精神の逃げ込める場所として存在できたら、救えるいのちがあるかもしれない。
毎日店の前を通る子供たちを見て、大人として何を教えてあげられるんだろうと考えるし、同じような方向を向いている方と、職業のジャンルを超えて繋がっていけたらいいなぁと思っている。